日本建築史の時代区分
原始(BC?~約600年)
:縄文、弥生、古墳「古代ローマ帝国は弥生時代」
古代(約600年~約1200年)
:飛鳥、奈良、平安「豪族・貴族の時代」
中世(約1200年~約1600年)
:鎌倉、室町、安土桃山「武士が衝突する時代」
近世(約1600年~約1900年)
:江戸「武士により全国統一された時代」
近代(約1900年~約2000年)
:明治、大正、昭和の戦前迄「近代化・西洋化の時代」
現代(約2000年以降)
:戦後
□原始:縄文、弥生、古墳
竪穴住居の土間は、寝殿造では高床になり、書院造に引き継がれます。被支配者の住居は基本的に土間でしたが、近世の民家では、土間と高床の両方が使われるようになります。床よりも土間の方が火や水を使いやすく、土足で入れるメリットもあり、現在、土間の良さが見直されています。
□古代:飛鳥以前は、神社建築がメイン
飛鳥時代より以前の日本は神社建築【神明造】【大社造】【住吉造】がメインでした。日本の建築には、時間の流れとともに朽ちて自然に戻すというエコなマインドがありました。建物は自然の一部という、建物の内部と外部とのゆるやかな繋がりを求め続ける、日本人特有の建築的価値観がありました。
【神明造】【大社造】【住吉造】:古代から伝わると最古の神社形式
飛鳥時代より以前の日本は神社建築がメインでした。
神を祀る空間から、建築スキルが進化・発展していきます。
神社建築は寺院のように変遷をたどることなく現在まで続いています。
○古代神社3様式:1.伊勢神宮、2.出雲大社、3.住吉大社
「神明造」(しんめいづくり)伊勢神宮は、20年ごとに建て替えられる式年遷宮(しきねんせんぐう)が実施されている。高床式建物、校倉、合掌材、棟の茅押さえだどを抽象化し、白木でつくられた。日本文化を凝縮したような建物。曲線は最小限に抑え、金属の使用は材の小口に限定。シンプルで気品があり、洗練されたデザイン。平入、白木、茅葺(むくり)、掘立柱、棟持柱
キングオブ神社:最も格式が高い神社、神宮は天皇家と関係があり、天皇の祖先である天照大御神を祀る。天照大御神が降臨し新しい支配者となり、弥生人と呼ばれ農耕が始まりイノベーション。高床式倉庫が始まる。
「大社造」は、大きな社(やしろ)が特徴。雲から出るような高さ48mの大きな社。高さ大きさを追求した迫力ある造形。妻入、丹塗り、檜皮葺(反り)、石場建て、非対称
縄文一族の大国主命は弥生人の天照大御神に国を譲るお礼にばかでかい社をもらう。地上から長い階段を上る。
「住吉造」は、回廊がなく、直線的で簡素なデザインで格式を落としているが、軸に塗られた朱色と壁の白とのコントラストが鮮やか。住吉造の平面と神事の方法は、新天皇即位後に初めて行う新嘗祭(にいなめさい)の大嘗宮正殿(だいじょうきゅうしょうでん)と似ており、古式を伝えている証とされる。妻入、朱色白色、檜皮葺(直線)、石場建て
□古代:飛鳥時代に仏教伝来(538年)→寺院建築
○飛鳥時代といえば法隆寺!(最古の木造建築物)
インドでBC6世紀に発生した仏教が、中国、朝鮮半島経由で日本に入ってくる。
建築イノベーションが起こる→柱を地面に埋める掘立式から、柱を礎石の上に建てる石場建てに変わっていく。瓦が導入され耐久性、不燃性向上(軸組構造)
大陸から伝わってきた寺院建築は、自然から独立して永遠に建ち続けることを目指した建築でした。そのため、屋根材には瓦が用いられ、雨漏りに対する性能が茅葺きに比べて格段に向上、柱も掘立柱でなく、石で基壇部分をつくり地面より高くして、その上に柱を立てるので、耐久性も格段に向上、しかし、屋根荷重が茅葺きに比べ重くなってしまいました。問題になるのが、柱頭部分と梁の接合部分です。接合部分の強度を高めるために登場したのが、斗(ます)と肘木(ひじき)という組物です。柱と梁が接する面積を広げることで、応力度を小さくする工夫がされています。「法隆寺金堂」は日本最古の木造建築物です。
「飛鳥様式」の特徴(法隆寺様式):中国六朝時代の様式、彫塑的で曲線の多い組物。重い屋根瓦が、雲の上に浮いているように見せる雲形の組物(雲斗)や雲肘木を使う。屋根形状を入母屋にして軽快に見せる。又、屋根が重層となっている建物はこれまで存在しなかった。日本最古の木造建築物。
飛鳥時代になると、大陸から仏教が伝わってきて、空前の仏教ブームに国中が湧き上がります。ついには、仏教による国造りが始まります。「仏教」に頼めばなんでも解決してくれる。ドラえもんのような存在。仏教が日本人の心をわしづかみにした理由は、「仏像」の存在。神社の場合、あの山も神、この石も神、神は至る所にいます。といった具合に、誰に祈っているのか、イマイチ曖昧でした。そこに仏像という何でも願い事を聞いてくれそうな、金ピカなフィギュアーが「神」として登場してきたので、お参りしたくなるモチベーションが一気に高まっていったのです。当時は、治安も悪く、明日、盗賊に襲われるかもしれない、突如、恐ろしい疫病が流行出すかもしれない、尽きぬ不安の中で、未来への希望や心の安らぎを求めるようになっていきました。
参拝客も急増し、参拝する空間に進化が起こります。「向拝(こうはい)」の登場。雨の日も参拝し易いように「向拝」という空間が寺院建築に設けられる様になっていきました。神社建築にも取り入れられるようになります。
日本古来の神社の屋根は、妻造りがほとんどだったので、妻側でなく、平側に「向拝」を設け、より多くの参拝者を雨から守れるようにしています。切妻造りの屋根の一方が長く伸びているのが「流れ造り」の特徴です。
【春日造】と【流造り】:古代に成立した、礼拝のための庇(向拝)のついた神社形式
共通として、棟数が多い、井桁状の土台がある、彩色が施されることが多い点。国内の神社では、流れ造りが圧倒的に多い。(造り易い)井桁状の土台の上に柱を載せるのは、移動を目的とする神輿(神輿)的な建物であった説、彩色が施されることが多いのは、成立や流布の過程で、仏教建築の影響が多々あったからだと考えられます。
○New神社3様式:1.春日造り、2.流れ造り、3.八幡造り
1.春日造り:奈良県にある「春日大社」は切妻、妻入りの正面に片流れの庇を設けている。屋根に千木と堅魚木を設けている。井桁状に組んだ土台の上にも柱を立てている。流れ造りは土台の上に柱を立てるので足下の土台が邪魔。神社本体部分にしか土台をまわさない方式に進化。又、小さいので神輿(みこし)のようにも見えます。
2.流れ造り:「加茂別雷神社(京都)(かもわけいかづちじんじゃ)」、「加茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」共に、本殿と権殿は、切妻造り平入り、全面の屋根を延長して向拝を設けた「流れ造り」※権殿とは仮の本殿のこと(式年遷宮)
3.八幡造り:吉妻平入りの流れ造りが前後に2つくっついた「八幡造り」手前を「前殿」、後方を「後殿」といい、前後に並ぶ社殿が接し、谷部分に陸樋(ろくどい)を設けます。参拝者が増え、貢ぎ物も多くいただくようになったので、奥の後殿に本尊を安置し、手前の前殿に貢ぎ物などを置いたり、拝む空間にした。代表作は、大分県宇佐市にある「宇佐神宮」全国にある八幡神社の総本社。祭神の起源とされる神社。全国の八幡神社が分社されていった。「武士の神様」武士は命がけの社会なので、たくさんの貢ぎ物が増え、建物を一つ手前に増やし貢ぎ物を置いた。
→江戸時代に「権現造り」に進化する。屋根は格式が高い入母屋造り、奥を「本殿」手前を「拝殿」といい、間に「石の間」という空間を設ける。栃木県の「日光東照宮」キングオブザ武士:徳川家康を祀る霊廟建築。
春日造は、妻入りであるが、曲線と彩色が導入された様式。代表例は春日大社であり、大陸建築手法の影響が濃い。本殿は一間社で、一間切妻妻入り形式だが、正面にだけ、庇(ひさし)を設けている。この礼拝のための庇は、向拝(こうはい)、階隠(はしかくし)、御拝(ごはい)とも呼ばれる。さらに、屋根を反らしたものが春日造の特色
流造は、切妻屋根の一方を流れるように前に出して向拝とした形式。
八幡造り:「武士の神様」
□古代:奈良時代は、仏教の時代(奈良の大仏)、聖武天皇 平城京
奈良時代は仏教の時代。聖武天皇の時代:仏教で日本を納めていく。東大寺や奈良の大仏を造り、仏教を全国に広めることで、飢饉や疫病から救えると考えていた。寺院建築が進化。建築イノベーション:三手先組物の発明(和様不完全)
【和様】:古代の仏教寺院様式(唐招提寺金堂:とうしょうだいじこんどう)鑑真を唐から招いた。和洋の完成形モデル
和洋は古代に、隋、唐から移入された様式。後の鎌倉時代に、宋から入ってきた「大仏様」や「禅宗様」に対して、昔からある様式を「和様」と呼んだ。
「和様」の特徴:柱上のみに組物、平行垂木、装飾少なく簡素。柱はドーリア式に近く、三手先組物はイオニア式に近い
奈良「木割り」→木割の秘伝書としてまとめられる(柱の直径Dから建物プロポーションが決まる)
→「匠明」江戸:柱の太さをDとして、柱の高さは8D、梁幅は0.35D、梁成は0.7D鴨居を0.4D、回り縁を0.5D、竿縁を0.3D、床框を1D,落とし掛けを0.4Dなど
○奈良時代3寺院(仏教寺院):1.薬師寺東塔、2.唐招提寺金堂、3.新薬師寺本堂
1.薬師寺東塔:1300年前の姿。裳階(もこし)がついた3重の塔、三手先組物は不完全。
2.唐招提寺金堂:三手先組物完成。和洋の完成形モデル、シンプル、誠実。
正面がピロティ。一つ屋根の下で、みんな仏教を学ぼうよという
姿勢。だれでも歓迎するデザイン。鑑真のもとに、全国各地から
お坊さんが集まってきた。(仏教を学ぶ総本山)
3.新薬師寺本堂:正面7間、側面5間、屋根は入母屋、正面の中央3間と、側面と背面の中央1間を戸口とし、他は漆喰。この建物には窓が無い。聖武天皇は、晩年病を患い、奥様の光明皇后が建てる。入母屋造り。奈良時代後期の作品。
□古代:平安時代は、豪族・貴族の時代!
平安時代 奈良時代は仏教によって飢饉や天災などの災いから守ろうという鎮護国家思想のもと、仏教中心の都づくり(平城京)がすすめられました。結果、仏教勢力が増大し、あわや天皇にとって変わろうとする僧まで登場するようになります。このままでは、仏教勢力に支配されてしまう。
政治や都から仏教関係者を遠ざけようと、都を奈良から京都の平安京へ移すことにします。80年続いた「奈良時代」が終わり、その後400年も続く「平安時代」が始まります。
仏教勢力は都から追い出され、山にこもって修行を繰り返すことで超能力を身につけられると頑張った結果、誕生したのが、平安四天王の一つ、「三仏寺投入堂」です。都から追い出された仏教は、この世界の仕組みや真理を極めることを目的に、険しい山の中で、修行を続ける形の信仰スタイルに変わっていったが、貴族たちはついて行けない!山で苦行を続けるなんて無理!
貴族たちは、独自の信仰スタイルを探し、たどり着いたのが「浄土信仰」この世の真理などどうでも良く、とにかく死んだ後、極楽浄土いわゆる天国へ行きたい。結果、死後に行ける浄土の世界を建築で表現しようとします。その代表作が「平等院鳳凰堂」
○平安四天王:1.三仏寺投入堂、2.平等院鳳凰堂、3.東三条殿、4.厳島神社
1.三仏寺投入堂:仏教勢力が名誉挽回のため超能力を身につけて実現した建築物。山の中にすっぽりと収まったように建てられた、三仏寺の奥院で、あたかも投げ入れられたかのように建っている。地盤から柱を立ててその上に建物を建てる、「懸造り(かけづくり)」の代表作。清水寺も懸造り。
2.平等院鳳凰堂:時代は藤原氏による摂関政治の時代。その頂点をきわめた藤原道長の息子藤原頼道が、都でどろどろした政治争いに嫌気がさし、別荘を阿弥陀堂つまり、阿弥陀如来を祀る仏道に改修した建物が、平等院鳳凰堂。中央にある中堂の左右に翼廊が配置されており、この翼廊の下部はピロティ状で、地面から浮き上がっています。まさに鳳凰が翼を広げ地上から飛び立とうとしている姿に見えます。屋根や建物をフアッと浮き上がる様に見せるのは「和様」の建築スタイル。平等院鳳凰堂は、洗練された和洋の建築スタイル。翼廊の一層目がピロティ、二層目が廊下空間というかたちの重層となっている。廊下空間は人は通れない寸法。背後には尾廊が配置されている。和洋建築は、奈良時代に薬師寺東塔で、三手先組物が登場し、その後唐招提寺金堂で、和洋の原型が完成します。そして平等院鳳凰堂で、さらに洗練された和洋へと進化した。「和様」建築の最終形態。
3.東三条殿:平安時代になると貴族住宅の形式として「寝殿造り」が登場します。その代表作。中央にある寝殿(正殿)を中心にその南側に南庭や池や中島を配置する構成。東西・北側には対屋(たいのや)と呼ばれる住屋(すみや)があり、渡殿(わたどの)という屋根付きの廊下で寝殿とつながります。両側が吹き放しの場合には、透渡殿(すきわたどの)や透廊(すきろう)と呼ばれます。池に面しては、釣殿(つりどの)があり、吹き放しの建物で納涼などの目的で使用されました。貴族の柱は角柱でなく、丸柱。寝殿の周囲には蔀度(しとみど)を吊り、床は板敷きであった。
4.厳島神社:平安時代の末期、平清盛が再建した「寝殿造り」神社です。波打ち際に建っているのは、御神体(ごしんたい)である宮島の弥山(みせん)を傷つけないためだった。自然美と人工美が巧みに調和した建築。厳島神社のおかげで、商売を有利に展開できた。本殿は、身舎(もや)の前後に庇を付けた「両流れ造り」の代表作。檜皮葺の殿堂を回廊で結び、海面に浮かんで見えるように配置した建築物。外国から貿易船が瀬戸内海に入っていくと、この厳島神社の前を通って関西方面へアクセスするのですが、その際、この優美な建物を見て外国商人たちは、こんなにも美しい建築を建てられる日本という国は、とんでもない経済力と技術力、そして美的感覚を持ち合わせているに違いない!気を引き締めて商売しないと付き合ってさえもらえないと思ったのではないでしょうか。
平等院鳳凰堂:古代建築装飾の集大成。洗練された、「和様」建築の最終形態。
平安時代に高まった浄土信仰に基づく境内伽藍の様相を今に伝えています。古代の建築装飾の技術と意匠の特徴を余すところなく採り入れて造られた建築です。
平安時代後期、天喜元年(1053年)時の関白藤原頼通によって建立。池の中島に建てられており、あたかも極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように水面に映し出されています。
装飾技術は仏教伝来とともにもたらされ、仏教寺院建設の黎明期に見られる彩画や文様などの意匠自体、唐文化が反映されています。
鳳凰堂を正面からみた姿が、翼を広げた鳥のように見えることと、屋根上に一対の鳳凰が据えられていることから、江戸時代初め頃から「鳳凰堂」と呼ばれます。
【寝殿造】:平安貴族の邸宅の様式 東三条殿が代表例。寝殿造りの現存する遺構はありません。
「寝殿造」の建物本体は、板敷きの床に天井を張らない屋根といった、がらんどうの空間で、部屋も分かれていません。そこに、家具や調度類(屏風や几帳)を置いて、しつらえにより場をつくります。寝殿造は、約3mスパンに直径30cmの丸柱を整然と並べて大きい空間をつくり、その後に家具や調度類で空間を仕切ります。畳は部分敷き。
□中世:鎌倉時代(武士が争う時代)
鎌倉時代:貴族に代わり武士の天下。新しく政権を担うようになった武士たちに、民衆は貴族たちでは出来なかったような、新しい政治を求めていました。武士たちも民衆からの支持率を激上げしておきたいと考えていました。そんな矢先、大陸から新しい仏教と共に、「大仏様(天竺様)」と「禅宗様(唐様)」という2つの建築スタイルが輸入されてきます。そこから鎌倉3寺院が生まれます。その一つが「大仏様」の「東大寺南大門」。
「和洋」という日本古来の建築スタイルが、柱の上に組物を積んでいく建築スタイルだとすれば、「大仏様」は、ぶっ挿していく建築です。挿し肘木といって柱の側面に挿し込んでいきます。又、柱と柱を貫などの横架材でぶっ通していきます。これは逃げがきかない。各部材を貫通させるのは、寸分の狂い無く、一発勝負で高い技術力が必要で失敗も許されない。そのかわり、少ない部材で大きなたてものを建築することが可能で、工期も短縮できました。その代表作が「東大寺南大門」です。
「禅宗様」という建築スタイルは、禅宗という宗教と一緒に大陸から渡ってきました。「禅宗」は日本の武士たちを虜にしていきます。「仏教」と違い、未来は仏にすがるものではなく、自分たちの力で切り開いていくものという教えだったから。なぜそこまで「禅宗」が武家社会に受け入れられたのかというと、そこには武家社会の思惑もありました。それぞれの仏教宗派は一神教であり、神様は一つである。そうなると、絶対的な仏様と将軍(武士のトップ)はどっちが偉いの。武士はどちらに従うかという、究極の選択問題があった。
その点、禅宗は無神教です。神に祈るのではなく、精神統一のために座禅を組むなど、精神統一のためのメソッドのようなもの。そのため、家臣との間で絶対的な主従関係を構築していきたい武家社会にとって非常に都合の良い仏教でした。武士は「禅宗」が大好きです。禅宗寺院の建築スタイルが、「禅宗様(唐様)」です。屋根の反り、深い軒、扇垂木、火灯窓など、緻密で繊細な意匠が特徴です。鎌倉時代後半から室町時代にかけて盛り上がっていきました。代表作は、鎌倉時代後半に建築された「円覚寺舎利殿」
○鎌倉3寺院:1.東大寺南大門、2.浄土寺浄土堂、3.円覚寺舎利殿
1.東大寺南大門:「大仏様」5間3戸の二重門で、屋根は一番格式の高い入母屋造り。
2.浄土寺浄土堂(兵庫県小野市):「大仏様」肘木を柱の側面に挿し込んだ「挿肘木」が特徴で、肘木の上に斗を載せ更にその上に挿肘木を重ねて片持ちの長さを伸ばしていきます。加えて、上部の虹梁を束(縦材)を使って下部の虹梁で支える構造となっており、中央部の天井高の高い空間を実現させています。当時のハイテク建築。
3.円覚寺舎利殿(神奈川県):「禅宗様」組物は「和様」のように柱の上にだけではなく、柱と柱の間にも入れる「詰組み」となっています。「和様」の場合、軒裏には、垂木が平行な「並行垂木」となっていましたが、大仏様や、この禅宗様では、垂木を放射状に配置する「扇垂木」となっています。一層目の両脇には、裳階(もこし)がついています。裳階とは、今で言う下屋部分のようなもの。裳階があるために2階建てのように見えますが、裳階は庇のようなもので、平屋建てです。内部は土間。裳階と主屋を海老虹梁でつないでいます。又、軒裏から小屋組内には、桔木(はねぎ)が取り付けられています。桔木はてこの原理を利用して、長く突き出ている軒先を支えるための材です。
【山城】:中世の戦国武将は攻めにくい山の上に難攻不落の砦や城郭をつくりました
やがて、近世になると、近隣を治めるという政治的意図もあり、平地の丘陵部(平山城)や平地(平城)に城郭をつくるようになります。城郭は領土支配の拠点となり、周囲には城下町が形成されます。城郭内の建物は櫓(やぐら、矢倉)とよばれ、中心的な櫓を天守閣と呼びます。天守閣の屋根は多層に組まれ、千鳥破風、唐破風で中心軸を強調し、対称性、象徴性の強い立面を形成しています。壁は耐火性を有するように土壁にしっくい塗りが多く、壁は白、屋根は銀色の明るい外観を形成しています。堀を築いたり、塀や石垣がカクカクと折れ曲がっていたり、複雑な構造には防御上の理由もあります。
ちなみに、萩城(毛利元就)1604年は、指月山の山麓にある平城(本丸、二の丸、三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されていましたが、廃城令で、明治7年に破却。
【大仏様】と【禅宗様】:鎌倉時代に、宋から移入されます。
(この時、昔からあった様式を和洋と呼ぶようになった)
「大仏様」:挿し肘木(ひじき)、通し肘木、貫などを使い、構造を露出したダイナミックなデザイン。
「禅宗様」:軒下の組物を柱上だけでなく柱間にも置く。柱、窓、屋根垂木などに曲線が用いられ繊細で華やかな印象。
「大仏様」:柱に肘木を直接差し込み(挿し肘木)何段もくみ上げて軒を支える。柱に貫を通して倒れないようにしている。力強いデザイン。大仏様は、重源が宋から持ち込んだ様式。大仏様がすたれたのは、粗野でダイナミックな架構が日本人受けしなかったためか。
「禅宗様」:組物が柱間にも付けられ曲線が多く、賑やかで華麗なデザイン。禅宗様は、幕府の庇護を受け禅宗とともに全国に普及。
和様+大仏様→新和様。和洋+大仏様+禅宗様→折衷様。以後、大きな変化なく近世、近代に続く。
□中世:室町時代(武士が争う時代)公家と武家と禅宗文化が融合
室町時代の最盛期は3大将軍の足利義満。中国との貿易で莫大ば富を生み出し、政治では、天皇勢力いわゆる朝廷や貴族たちの勢力を封じ込め、武家勢力による政治権力を確立させました。一方で、貴族文化と武家文化の融合も図られ、名作建築が誕生します。「金閣寺」です。
○室町3禅寺:1.鹿苑寺金閣、2.慈照寺銀閣、3.竜吟庵方丈
1.鹿苑寺金閣:室町幕府最盛期の足利義満が建てた。お金や権力があり、金箔の金閣寺を建てることができた。方形造りの舎利殿で3階建て。初層の一階部分は、貴族文化の象徴である「寝殿造り」風の住宅。2階部分は、仏教建築において日本独自の進化を遂げていった「和様」の仏堂風の空間。「和様」は鎌倉時代に伝わってきた「大仏様」や「禅宗様」とは異なり、日本独自に進化したスタイル。一層目の「寝殿造り」の上に「和様」の仏堂空間を乗せるというのは、貴族よりも仏教の方が地位や格式が高いことを示し、最上層は禅宗様の仏堂風の空間となっており、火灯窓がついています。これは仏教の頂点が武家好みの「禅宗」であることを示しています。貴族よりも仏教の方が権威があり、その仏教の頂点は禅宗であることを具現化した建築物。足利義満の室町幕府は、仏教として臨済宗という禅宗を大切にしてきました。武家社会に都合の良い宗教でした。
2.慈照寺銀閣:足利義満の孫の8代将軍:足利義政。義満の時代に比べ、室町幕府の権威は大きく弱まっていました。さらに将軍義政は、政治に関心が無く、芸術を好むアーチスト将軍でした。新しい美的文化を生み出します。慈照寺の境内の中に、「東求堂(とうぐうどう)」という建築物があります。その東求堂の中に、「同仁斎」という「付書院」があります。4畳半、付書院、違い棚を有する空間が、「書院造りの原形」になりました。現存最古の「4畳半茶室の起源」でもあり、「日本の和室の原点」でもあります。西洋のように豪華に装飾を重ねていく、「足し算の美しさ」ではなく、要素をそぎ落としていくことで、無の空間というか、余白のような部分を増やしていき、それによって本質的な美しさを浮かび上がらせていく、いわば「引き算の美学」をアーティスト将軍は目指したのです。この美意識の違いは、西洋の「フラワーアレンジメント」と、日本の「生け花」いわゆる華道の違いにも表れています。そんな「生け花」も義政を中心とした文化が開花させた美意識の一つ。茶の湯の美意識もこの時代から研ぎ澄まされて行きます。この時代に、能楽(観阿弥、世阿弥)・茶の湯(村田珠光)・生け花(池坊専慶)・連歌・水墨画・枯山水の庭園といった、日本の伝統文化がその形を整え、日本人としての美意識や美的精神が確立されます。建築にも大きな影響を与えました。政治への無関心さが災いし、義政の跡継ぎ問題を巡り、権力争いが勃発。11年に渡る「応仁の乱」です。これにより、日本は戦国時代に突入していき、信長・秀吉・家康という3英傑の登場を待つことになります。
3.竜吟庵方丈(りゅうぎんあんほうじょう):臨済宗東福寺派の大本山である東福寺の「塔頭(たっちゅう)」の一つ。「現存する最古の方丈」「塔頭」とは、大きな寺院において現役を引退した高僧の隠居所のことですが、なかには、一つの寺院規模になっているものも有ります。そんな塔頭において、「方丈」とは、高僧が日常生活を営む住まいのことであり、接客の場としても使用されていました。屋根は入母屋造りで杮葺き、室町最盛期の足利義満の時代に建築されています。建物に合わせて、枯山水の三つの庭が有名。
□近世:安土桃山、江戸(武士が全国を統一する時代)
近世の住宅は、大きくは支配層の「書院造」と被支配層の「民家」の二つの様式に分類される。
【書院造】(武家):近世に成立した武士の住宅様式 畳敷き、格式、接客を重んじる。質素で飾り気のない、質実剛健なデザイン。
○書院三点セット:書院+床の間+床脇(違い棚)、帳台構え(武者隠し)
本勝手:床の間に向かって、左側に書院、右側に床脇をもうけたもの。
古代の「寝殿造」が中世で「主殿造」(区別する説もある)に変化して、近世に「書院造」となります。畳を敷き詰め、天井を張り、接客が重んじられます。平安時代から中世を通して、寝殿造は、固定的な間仕切りを持つ小規模で実用的な住宅へ変化していき、室町中期になって、書院造という住宅形式に結実します。貴族たちも広々とした儀式の場としての寝殿造りにこだわらず、別に住むための実用的な住宅を用意しました。有名な金閣寺や銀閣寺は中世末に建てられた仏堂です。
「書院造」は、部屋割りをした後に、部屋の壁に20cm角の角材を約2m間隔で置きます。当初、寺院から派生した架構法が、木材の節約、部屋を組み合わせる平面計画により変化したもの。「寝殿造」では、いくつかの棟を左右対称に近い形で連結していたものが、書院造では非対称の雁行形が常態化します。中国のような左右対称ではなく、山の迫り出す地形の多い日本では、谷筋の地形に合うような雁行配置が好まれたようです。動線に景色の変化や奥行きが出せ、縁側と庭を洗練させている日本では効果的です。世界に誇る日本の建築空間。
木割書:「匠明」が有名(江戸幕府の大棟梁平内家に伝わる安土桃山時代の木割の秘伝書)
書院造の寸法システム(各部の大きさ)木割(木砕:きくだき)
「木割」奈良→木割の秘伝書としてまとめられる
→「匠明」江戸:柱の太さをDとして、柱の高さは8D、梁幅は0.35D、梁成は0.7D
鴨居を0.4D、回り縁を0.5D、竿縁を0.3D、床框を1D,落とし掛けを0.4Dなど
ヨーロッパ古代のオーダーも柱の太さを基準とた寸法システムがありました。
参考:西洋の黄金比1:1.618、日本の白銀比1:1.414
公家の寝殿造や数寄屋風書院造の上品で繊細なデザインとは対極に位置。上級武士が謁見する場では豪華な装飾が施されるが、基本的には装飾が限定されていた。「書院造」は、瓦葺屋根の下に畳の床と天井がある現代の和風住宅の原型となる。
○書院造:1.光浄院客殿、2.二条城二の丸御殿 (武家)
代表作1:光浄院客殿(書院造の初期):園城寺、通称三井寺の子院
:「寝殿造り」に天井が張られ部屋が区画しやすくなった、畳みが敷かれ「主殿造り」と呼ばれ書院造の初期。
「匠明」の殿屋集にある、「主殿の図」と同じ、桃山時代の標準的な武家住宅の形式を示す。
代表作2:二条城二の丸御殿(書院造):徳川家康、白書院、黒書院(押板床、違棚、付書院を持つ上段の間がある)各室が雁行型に配置されています。
【茶室】:佗茶の思想を実現(草庵風、書院風)
織田信長の武士の時代に、恩賞不足から、茶器の価値を上げ、恩賞を茶器や茶会で与える風潮から、「茶の湯」人気が訪れます。公家と武家と禅宗が融合し、日本の精神となる「侘び、寂び」が生まれました。
○草庵風 茶室:1.妙喜庵待庵(佗茶の思想を実現)
代表作1:妙喜庵待庵(千利休)16c 京都大山先町:1畳台目畳、室床、天窓、躙り口:草庵風 ※千利休は商人
中世中頃に発生した茶の湯は、中世末に茶室建築を生み出し、近世初頭に千利休によって草庵茶室(草庵風茶室)が確立されました。千利休による妙喜庵待庵(みょうきあんたいあん)は草庵茶室の代表例です。
豪華で格式を重んじる書院造に飽きた趣味人がつくった建築。遊びの要素を含んだ、各部まで神経の行き届いた建築。豊かな家に生まれた鴨長明が方丈庵という粗末な家で「方丈記」を書いたことに通じます。世捨て人の庵は4畳半。参考:1畳と1丈
豊かな者の貧乏ごっこともいえます。
草庵茶室の特徴
狭さと閉鎖性、竹や荒壁、紙、製材されていない材などの自然に近い材料。これまで、世捨て人の庵は4畳半でしたが、千利休が待庵で一気に2畳(1畳台目畳)にまで縮め、普及させました。(ダビンチの人体図寸法とほぼ同じ大きさ)窓が小さく薄暗い空間に大人2人(利休と秀吉)が過ごします。後に、小堀遠州が書院風茶室を創設し、広々と明るい茶室もつくられるようになります。
○書院風 茶室:1.如庵、2.密庵、3.孤篷庵忘筌(書院造に草庵風茶室の造形)
代表作1:如庵(織田有楽斎)17c 愛知県犬山市:2畳半台目畳、大小5つの窓、有楽窓、天窓、躙り口:書院風 ※織田有楽斎は武士であり、キリシタン
代表作2:密庵(小堀遠州)17c 京都(桂離宮の敷地の南端に造立):4畳半台目畳、貴人口、本床、密庵床:書院風 ※小堀遠州は武士であり、建築家、造園家
代表作3:孤篷庵忘筌(小堀遠州)17c 京都:12畳半台目畳、「きれい寂び」:書院風
【数寄屋風 書院造り】(公家)は、書院造りに茶室建築を取り入れ、自由で軽快。近代、現代和風住宅のルーツとなる。
※武家社会には統治する力が必要であり、格式張った「書院造り」で、威圧的空間が必要でした。
※公家社会には「書院造り」は息苦しくて、もっと自由で軽快洒落たものを好み、「書院造り」に「茶室」建築の手法を取り込んだ「数寄屋造り」が生まれました。
○数寄屋造り:3.桂離宮、4.西本願寺飛雲閣 (公家)
代表作1:桂離宮:3つの書院(古書院、中書院、新御殿)4つの茶室(笑意軒など)、月の建築
代表作2:西本願寺飛雲閣(京都):豊臣秀吉(安土桃山)、住宅風で軽快で奇抜な意匠
格式を重んじる豪華な書院造に対して、質素で軽快な数寄屋風書院造が公家の離宮などでつくられます。桂離宮は数寄屋風書院造の代表作。簡素でありながら洗練された優美さがあります。数寄とは、好きの変化形で、茶の湯や生け花などの風流を好むことを指すこともあります。数寄屋は茶室を意味。数寄者は、茶の湯などに熱心な風流人のこと。極端な数寄者は、かぶき者と呼ばれました。
書院造の装飾は、金色を多用した豪華絢爛なものにする傾向がありますが、数寄屋風書院では、風流を楽しむような、簡素で繊細な装飾が多い。桂離宮は月見を意識した設計のため、月の字を崩した装飾も多く使われています。武士は威厳を保つため、公家は風流を楽しむために装飾を用いたと思われます。
又、柾目(平行模様)でなく、板目(曲線模様)の柱も使われます。
豊臣秀吉(安土桃山)、住宅風で軽快で奇抜な意匠
【権現造】:近世に成立した、本殿と拝殿を石の間でつなぐ神社や霊廟の形式
「権現造」(石の間造)は、彫刻、彩色に華麗に覆われていることに特色。日光東照宮は、徳川家康の神号である東照大権現からとったもので、平面形式や装飾様式は江戸時代の神社形式で多用されました。
○権現造り:1.日光東照宮 は、徳川家康を祀る霊廟建築
日光東照宮の各建築は、古代から近世に至るまでに我が国に現れた建築様式および建築装飾技術、ならびに建築意匠を集大成した建築群。
宇佐神宮「八幡造り」→江戸時代に「権現造り」に進化する。屋根は格式が高い入母屋造り、奥を「本殿」手前を「拝殿」といい、間に「石の間」という空間を設ける。栃木県の「日光東照宮」キングオブザ武士:徳川家康を祀る霊廟建築。
権現造(石の間造)は、彫刻、彩色に華麗に覆われている。近世神社は、まるで後期バロック。
近世寺社の代表例。日光に影響され、関東周辺では、装飾、彫刻、彩色が多い豪華絢爛な寺社がたてられました。装飾は、組物だけでなく、柱や梁にも及ぶ。彩色は、金、黒、白、赤、青など豊か。中心軸状に唐破風を使うことが多い。
【民家】:地域によって多くのバリエーションが生まれる
:「合掌造り」長い冬を耐えるために親族が集まって暮らす多層民家。曲根の木を使った「枠の内」架構。
:「本棟造り」豊かな土地柄を反映して、大きな正方形の農家。雨が少ないため、屋根材は栗の木を割って葺いた板葺き。
:「漏斗造り」中心に雨を集める民家。2棟分棟型の建物が1棟建てになる過渡期。佐賀県。
:「曲り家」南面の家畜小屋で牛や馬を大切に育て、自分たちは北側の寒いところで暖をとって暮らした。岩手、秋田、新潟。
:「キャロク造り」2棟の建物を廊下でつないだ民家。東南アジアから伝来。奄美大島では「ヒキモン造り」と呼ぶ。三間四方の正方形の建物が2棟でつながる、1棟は寝室などの居室棟、もう1棟は台所に使う棟。
:「アイヌのチセ」も分棟型。土間を囲炉裏で温め続けて、半年後に戻ってくる地熱で冬をしのいだ。
:「両番」韓国では、リャンバンと呼ばれる庄屋の家も分棟型。家の隅にプオクと呼ばれる釜屋(台所)があり、煮炊きの煙が床下を通って、温床(オンドル)
:「兜造り」高ハッポウという茅屋根に窓を開けた造り。屋根裏で養蚕を行うために光が必要だった。
:「四方蓋」香川県は藍の産地で庭に干した藍を急いで取り込むために四方に下屋を回した。
民家の特徴:炊事と農作業のための土間をもち、天井は張らないことが多く、単純な茅葺寄棟屋根の長方形平面で窓が少なく閉鎖的。東側の広い土間で炊事と農作業をし、西側の床の上で食事、奥が接客間と寝室に使用される。書院造では、炊事場は土間をもつ別棟に配されるが、民家では一体化しており、素朴で実用的、機能的。
各地方で多くのバリエーションがあるが、最終的に田の字形+土間の平面に落ち行く。座敷、居間、台所、納戸の4部屋と土間の普遍的な平面になっていく。
現存する民家は近世末や近代のものがほとんどで、富裕層のもの。貧農の家はおそらく床が無く、全て土間だったと思われる。かまどの煙は屋根に上がり虫よけになる。床よりも土間の方が火や水を扱いやすく、農作業にも便利で、戦後も土間が多く残っていた。
参考:民家の魅力
□近代:明治、大正(近代化を目指した時代)
1900年頃、ヨーロッパ【近世建築】と【近代建築】が同時にはいってくる。
日本の近代化は、明治維新後にヨーロッパの近世建築、近代建築がほぼ同時に流入し、急速な西洋化が進む。
「山口銀行旧本店」1920年(大正9年)、煉瓦及び鉄骨鉄筋コンクリート造2階建、地下1階、設計:長野宇平治
東京駅を設計した近代建築の父と呼ばれる辰野金吾の弟子である長野宇平治の設計した建物だ。外壁は徳山産の花崗岩、玄関脇にはギリシャ建築のイオニア様式風の柱形がある。当時の保険会社や銀行は古典主義を基本として由緒のある様式をまとうことで、会社の信用を増す効果もあったようだ。張り出したコーニス(上部の庇)やパラペット状の手すりによって奥に在る薄い屋根を隠し、全体として箱型、長方形の外観。古典主義の様式的な細部が抜け落ちることで、徐々に現在見る装飾のない箱型の近代建築に近づいていったのだろう。
「旧逓信省下関電信局電話課庁舎」(田中絹代ぶんか館)1924年(大正13年)鉄筋コンクリート造3階建(煉瓦壁有)、設計:逓信省営繕課
欧州の新建築運動の影響を受け、歴史主義からモダニズムへの過程期(近代建築運動)のシンプルモダンな建物で、局面の塔屋(ヴォールト屋根)や飾りをもたない付柱が2階窓上部の薄い庇の上に露出している新しい造形。柱はパルテノン神殿を彷彿させる。驚いたのが、内田式流水防火装置で、火災時には塔屋の水槽(40トン貯水)から2階窓上部の四角い穴から放水され特許をとっているという。なんて斬新な。妻面窓は長方形窓を3分割、RC化に伴い開口部が大きくなっている。近代化の波を感じる。
建築家:ジョサイア・コンドル(英) 近代建築の父
明治維新後に日本政府から招かれたコンドルの影響は絶大でした。(25歳で来日、日本にて68歳で他界)コンドルは工部大学校造家学科(現東京大学建築学科)の専任講師となり、設計、計画、構造、歴史などのヨーロッパの建築知識をひとりで教え、普及させました。彼のもとから辰野金吾らの著名建築家が生まれます。(片山東熊、佐立七次郎、曽禰達蔵、辰野金吾)又、辰野金吾の弟子が長野宇平次です。
建築家:ル・コルビジェ 戦後活躍した日本の建築家のルーツ
前川國男、板倉準三、吉阪隆正の3人は、コルビジェ事務所で働いた後に帰国し、設計活動や大学での教育活動で活躍します。前川事務所で働いた丹下健三は戦後の日本建築をリードし、その弟子が磯崎新、黒川紀章、槇文彦です。東京オリンピック、大阪万博と活躍した建築家の源流をたどるとコルビジェに行きつきます。
日本建築(屋根の建築)とヨーロッパ建築(壁の建築)
日本建築は、雨が多く、柱は木、壁は板や土、窓は板や障子なので、日本では屋根の軒を大きく出します。
ヨーロッパ建築は、雨が少なく、壁や柱は煉瓦や石なので、軒を出さなくてよく、壁をいかに装飾するかとなります。
東京の年間降水量はパリの2倍以上、アテネの3倍以上です。