鎌倉時代に下野国(しもつけのくに:栃木県)から武蔵国(むさしのくに:東京大田区鵜の木)に移り住んだと伝えられ、江戸時代には鵜の木村の名主役などの重職を勤めていた。明治時代には役場として使用された。「玄関の間」の前面には式台がついており、格式の高さがうかがえる。書院の前の枯山水の庭を大切にしていた。昭和の初め頃までは、屋敷の東側に作業場、馬小屋、鶏小屋、米つき小屋が残っていた。昭和30年代までは、毎年初午(はつうま)を行っていた。初午の日は幟(のぼり)を立てて近所の子供を集め、菓子などを配ったという。江戸時代の豪農の暮らしぶりが伝わる民家。西側の「書院の間」や東側の「風呂およびへっつい」などは後年の増築であり、基本的には、桁行8間、梁間5間で、屋根は寄棟茅葺き、正面に千鳥破風をもつ。土間の前後2室の仕切りは大正期に付加されたもの、火灯窓(かとうまど)をもつ。主屋の正面には、開口部の両側に室内空間をもった門がある。「長屋門」と称され、大規模農家や上層武家住宅などにもちいられた。
「千鳥破風」屋根の流れ面に取り付けられた切妻の破風。三角形の部分に狐格子を入れる。主として装飾用でまれに換気・採光を兼ねる場合もある。

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